耳を澄ますと、どこからともなくシャンソンが聞こえてきた。

しっとりと、憂いのある、深みのある曲、何処かで聴き覚えのある曲だ。

聡(さとし)が、目の前の、このただの、古ぼけた教会をスケッチしている間に、あたりは、夜のシーンへと、気付かないうちに変わっていたようだ。

「すっかり暗くなっちゃったな。」
「でも、この街灯の明かりもいい感じだし、もう一枚!」

ここで、立ったままスケッチを始めて、もう何時間も過ぎていたが、聡にとって、そんなことは、どうでもいいことだった。

近くの酒場は、これからが本番を迎えるようで、お客のザワメキと、シャンソンが、いっそう賑やかになっていった。


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聡がパリに着いたのは、昨日の夕方だった。

「え!ソウル経由で???」

知り合いの紹介で、小さな旅行会社へパリ行きのチケットを買いに行った時、一番に勧められたのは、韓国のエアラインのソウル経由のものだった。


「直行便ではありませんが、時間もそんなに変わりませんし、なによりもお値段がお手頃ですよ。」

確かに、香港や、バンコクや、はたまた、シンガポールなど、いろいろな経由地のパリ行きのチケットが売られていたが、

時間的に考えると、ソウル経由は、他の経由便と比べて、直行便と、そんなに大差ない感じだった。

それに、このシーズンの直行便や、ヨーロッパ乗り継ぎ便は、聡が考えていた以上に高額な値段がついていた。


生まれて初めての一人旅、それも今回が、初めての海外旅行となる聡には、乗り換えなんて無理だと、出発まではとても不安だったが、

実際に乗ってみると、ソウルの仁川空港での、乗り換えは非常にスムーズで、免税店やレストランを楽しむこともでき、ちょっとした長旅の息抜きにもなった。



また、機内では、韓国料理のビビンバが機内食で味わうこともでき、周りの人たちにも好評のようだった。

トレーの回収が一通り終わると、まもなく、明かりが消え、機内が暗くなった。

ジェットエンジンの音だけが、静かに聞こえる。

「一眠りしたら、もう、パリに着くんだな・・・・・。」

後は、もう、到着を待つだけの聡は、安心して眠りについていた。


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聡は、小さいときから、よく絵を描いていた。

外で友達と遊ぶより、いつも大人しく、一人で黙々と何かを画いている子供だった。

そんな聡が、はじめてみんなの注目の的になったのは、小学校三年生の時、担任の先生が応募した絵のコンクールで、聡が金賞を取った時だ。

「聡君は、ほんとうに絵がうまいね。」

「ほんと、ほんと、ここなんて、とてもいい色が出てる。」


絵を描くごとに、友達や先生からほめられることが、多かったが、ただ、面白くて絵を、描いていた聡にとってみれば、絵が上手いか、下手かが、どうしてそんなに問題になるのか不思議なことだった。


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酒場から美味しそうな匂いが漂っていた

「そういえば、今日は、朝から何も食べてなかったな。」

一日中パリの街を歩き回って、食べることなど忘れていたようだ。

昨日のレストランのランチでは、ただの鳥の足を焼いた料理と、パンと、コーヒーで約3,000円も取られ、ユーロがこんなに強いなんてと、改めて驚いた聡だった。

交差点の向こうに、パン屋が見えた。

「そのハムとあのチーズを、このパンに挟んでください。」
それは、発音のしっかりした、綺麗なフランス語だった。


コーヒーも頼んで、お店の中にあるスタンドで食べる立ち食いだったが、日本では味わえない本場の味だった。それでもこんな質素な夕食でさえ、約1,000円近くかかっているのだが・・・・・。


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教育熱心な母親のせいで、聡は横浜の有名なミッション系の私立に通っていた。

絵を描くことしか取り柄のない聡にとって、私立の自由な校風は、とてもありがたかった。

授業の出席も取らないので、美術室で、毎日、毎日絵を描いて、フランス語だけは、厳しかったので勉強したが、あとの科目は友達のノートでお茶を濁していた。


学校も親も、そんな聡を、将来は美大に入り、フランスあたりに、留学して画家になるのだろうと、温かい目で見守っていた。

実際、聡は自分の将来のことなど、何一つ考えておらず、興味のあることといえば、毎日の目の前の、デッサンの被写体の形や色のことだけだったのだが・・・・・・。


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パリの街はとても面白かった。

古い町並みを歩いていくと、どんなアングルでも絵になる。
聡はパリで絵を描くつもりは、ぜんぜんなかった。

でも、どうしても描いてみたい景色が、次から、次へと現れた。それに、なんとなく昔見た名画と同じような風景も、中にはいくつかあった。

立ち止まって、描かずにはいられなかった。


それで、パリに着いてから、街を描くことに夢中になって、あんなに行きたかったルーヴルにも、オルセーにも、まだ、いっていないことに気が付くと、

「あしたこそは、朝から、ルーヴルへ行こう!」と、
寝る時間になっても、聡の興奮は収まらなかった。

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聡があんなに好きだった絵を描かなくなって、もう、10年が経っていた。

あの年の夏が過ぎ、夏休みが終わっても、聡の机はいつも空いたままだった。

「聡君、どうしたのかしら?」

「知らないの?聡君のお父さん・・・・・」


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