聡があんなに好きだった絵を描かなくなって、もう、10年が経っていた。

あの年の夏が過ぎ、夏休みが終わっても、聡の机はいつも空いたままだった。

「聡君、どうしたのかしら?」
「知らないの?聡君のお父さん・・・・・」

クラス中が来なくなった聡の噂で、もちきりだった。

仲の良かった美術部員だけが、父親の事業の失敗と、下町の公立高校へ転校したことを知っていた。


聡の新しい生活に、絵を描く時間は全くなくなった。全く初めての英語や、難解な数学の授業から逃れることも出来ず、放課後も毎日バイトが待っていた。


やっとの思いで、なんとか高校を卒業できたが、美大へは進まず、家族を助ける為に、学校の紹介で小さな会社に就職し、
毎日毎日が過ぎ、気が付くともう、絵を描かなくなって、10年が経っていた。


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ホテルを出ると、夏のパリというか、緯度の高い、ここヨーロッパ特有の、雲ひとつない、澄み切った青い空が広がっていた。

暑いが、日本と違って、湿気のない、からっと乾いた朝の空気が心地よかった。

ルーヴルへ行くため、セーヌ川を歩いていくと、大きな教会が見えてきた。

「すみませーん。あの教会は何ですか?」

「おや、知らないの?あれが、ノートルダム大聖堂だよ。」

散歩途中の暇そうなおじさんに、尋ねてみた。


「観光してるの?時間があれば行ってみたら?」

「あそこから、中に入れるから」

「ありがとう、ムッシュ」



意外なことだったが、パリの人は結構親切だ。
困ったとき、助けを求めると、かなりの確率で応じてくれる。

もしかすると、パリの人が冷たいというのは、こちらから助けを求めず、ただ待っているだけ・・・・だからではと、聡は思った。

もちろん、フランス語で、話しかけるというのも、ポイントなのかもしれない。

「エクスキュゼモア」
「パルドン」
「メルシーボク」

街を歩いていると、絶えず聞こえてくる魔法の単語だ。

「失礼します」
「すいません」
「ありがとう」

この3つの言葉だけでも、パリの滞在が格段と楽しくなる。


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セーヌ川にかかる橋を渡り、広い広場に出ると、ノートルダムの周りには、まだ、朝だというのにたくさんの人達が集まっていた。

大きなドアからは入っていくと、中は想像以上に広く、たくさんの人達がお祈りをしていた。そして、深い信仰を示す彫刻の数々。

薄暗い空間の中で、大きなステンドグラスが鮮やかな光を放っていた。
光と影の絶妙のコントラスト。

ひんやりと、そして、ピーンと張り詰めた空気。

大聖堂の中にあるすべて物に、聡は見入っていた。

そして、何時間もそこを離れられないでいた。


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ノートルダムの広場には、スズメがたくさん集まっていた。
スズメ達は、人見知りをしないようで、ベンチに座っている聡に平気で近づいてくる。

よく見ると、手にえさを置いた女の子からは、その手に乗って直接啄ばんでいた。

「信じられない、ここのスズメは手乗りなんだ。」
「ほんとすごいわね。こんなに人に馴れてるなんて!」

聡の横には、カナダからの旅行者、マリアが座っていた。

「モントリオールのスズメは、すぐ逃げてしまうわ。」
「それにしても、聡は本当に絵が上手いわね。」

「君のほうが上手いよ、それに、君は美大生だって・・・・・。」

「そんなこと関係ないわ。さっき大聖堂の中で、あなたが描いていたデッサンを見て、私・・・・・。」




偶然に、同じ彫刻をデッサンしていたのが縁で、気が付くと2人は、広場のベンチに座っていた。

「ぼくは、ずっと絵を描いていなかったんだ。絵のない暮らしをもうずいぶん・・・・・・。
でも、どうしてもパリだけは行きたくて、今回やっと長年の念願がかなって、・・・・
夏休みは短いから、もう明日帰らないといけないけど・・・・・・。」


「そうなの。でも、聡が絵を描かないのは、もったいないわ。ね、日本に帰ったら、また、描けばいいじゃない。」

「うん、」

聡には、それ以上どう、返事をしていいのか分からなかった。

でも、マリアと話していると、なんとなく、昔みたいに絵を描けそうな気もしてきた。

お互いのデッサンを見せあったり、カナダや日本のことを話題にして、楽しい時間が過ぎていた。

「また会えるといいね。」
「必ず会えるわ。それまでたくさん絵をかいてね、聡。」


夕暮れのセーヌ川の別れは、知り合ったばかりの2人であっても、まるで映画のように、とてもロマンチックだった。


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シャルル・ド・ゴール空港行きのバスは、凱旋門の前から出ている。


賑やかなシャンゼリゼ道りを眺めながら、聡はパリにいる間、描きあげたデッサンの束を大切そうに小脇に抱えながら、名残惜しそうにバスに乗った。


「こんどは、もっとゆっくりと過ごしたいな。できれば、二人で。」


そう独り言を言って、取り出した、一番最後に描いたデッサンの、その片隅にはマリアのアドレスが、少しかすれた木炭で、書かれてあった。


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